松平 広 忠。 形原松平家 - Reichsarchiv ~世界帝王事典~

松平家広

松平 広 忠

『改正三河後風土記』上巻 秋田書店、1976年• のちにそれを許されて家康のもとへ帰参し、の際には家康のに同伴。 通称・仙之助、孫三郎。 脚注 [ ]• 信孝は明確に広忠に反旗を翻したわけではありませんので、当然のように抗議し、義元にも訴えましたが聞き入れてもらえず、やむなく織田氏に臣従し、三河国大岡城(山崎城)に入りました。 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年。 またこれを「尾州の武略」としている。 千之助、源七郎。 小和田哲男編『今川義元のすべて』(新人物往来社、1994年)• また、柴裕之は後者の立場から、松平竹千代(徳川家康)が織田氏の人質になったのはの裏切りによるものではなく岡崎城陥落によって松平広忠が降伏の条件として竹千代を人質に差し出したとする見解を述べている。

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松平忠輝

松平 広 忠

『三河文献集成 中世編』所収「松平記」および松平記附載「阿部家夢物語」国書刊行会、1980年• 通称・平一郎。 家康は、長男・信康の面影を忠輝に見いだしていたようである。 信定を諌めぬどころか黙認という隠居の曾祖父・道閲()の姿勢もあり、それゆえ「国中の制法信定次第」で「権威つよくなり、日増しに増長」し、同6年には所領を悉く押領しての衆をひきつけ、また広忠を殺害しようと企てるようになった。 「徳川幕府家譜」35頁。 忠輝の登場する作品 [ ] 小説• 通称は次郎三郎であったといい(「三河物語」「武徳大成記」1巻72頁)また「岡崎三郎」と称したことが発給文書より確認されている(『新編岡崎市史6』757頁所収「大樹寺文書44」天文16年12月5日付け大樹寺宛寺領寄進状) 経歴(一説に) [ ] 「徳川幕府家譜」の記述を一例として示す(18から19頁) 4年()、広忠が10歳の頃に父・清康が死去し、大叔父のは「虚に乗りて」岡崎を断行。 参考附記:「寛政譜」2巻217頁は吉良持広の養子としてと記す。

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松平忠次

松平 広 忠

こうして6月には広忠の岡崎城帰還が成立。 ( 2015年9月)• 松平広忠 贈太政大臣正一位宣命(高麗環雑記) 天皇我詔良万止、贈従二位權大納言源廣忠朝臣尓詔倍止勅命乎聞食止宣、弓乎鞬志劔乎鞘仁志氐与利、今仁至氐二百有餘年、此世乎加久仁志毛、治免給比、遂給倍留者、汝乃子奈利止奈牟、聞食須其父仁功阿礼者、賞子仁延岐、子仁功阿礼者、貴父仁及者、古乃典奈利、然仁顯揚乃不足遠歎給比氐、重天官位乎上給比氐、太政大臣正一位仁治賜比贈給布、天皇我勅命乎遠聞食止宣、嘉永元年十月十九日奉大内記菅在光朝臣申、 (訓読文)天皇(すめら、のこと)が詔(おほみこと)らまと、贈従二位(すないふたつのくらゐ)権大納言(かりのおほいものまうすのつかさ)源広忠朝臣に詔(のら)へと勅命(おほみこと)を聞こし食(め)せと宣(の)る、弓を鞬(ゆぶくろ)にし劔を鞘にしてより今に至りて二百有余年、此の世をかくにしも、治め給ひ遂げ給へるは、汝の子なりとなむ、聞こし食す其の父に功あれば、賞子に延(つ)ぎ、子に功あれば貴父に及ぶは古(いにしへ)の典(のり)なり、然るに顕揚(けんやう)の不足遠く歎き給ひて、重ねて官位を上(のぼ)せ給ひて、太政大臣正一位に治め賜ひ贈り賜ふ、天皇が勅命を遠く聞こし食せと宣る、嘉永元年(1848年)10月19日、大内記菅(原)在光(、従四位下)朝臣奉(うけたまは)りて申す、 妻子に関する伝承 [ ] 妻に関して [ ] 「柳営婦女伝」は三人の室を記している。 吉成の死後、跡を継ぐ。 通称は甚兵衛(以降三代にわたり甚兵衛を称す)、筑後守、源心。 女子:田中定賢室• また院号は「御九族記」による。 少将(忠輝)せんかたなく御城下の禅寺に寓居して。 【主な参考文献】• 改易後は幕臣として長沢松平家旧領近隣を与えられ、交代寄合。

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愛知の城 佐々木城

松平 広 忠

永禄5年 ()に元服し、小坂井ほか1,810貫文を知行した。 石川安藝守清兼之室・松月院妙春尼の墓・石川家成の母・上宮寺. 1551年弟三蔵忠就は、今川義元より兄の旧領佐々木郷を得たと云う。 4年()、家督を次男・に譲って隠居する。 側室:岩崎氏• 3代藩主。 母:娘• この信定の入城は清康の旧臣たちの意向に従ったものと考えられています。 跡を養子・が継いだ。 清康の死を天文4年12月5日とするが井田野合戦の年次は記されていない。

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松平家広 (形原松平家)

松平 広 忠

9年()の祖父の死去により家督を継いだ。 通称・小大夫(以降、子孫も小大夫を称す)。 信定は攻撃を加え、また大久保忠俊に7枚の起請文を書かせる。 さらに駿河へ渡って翌年秋まで滞在する。 改易時に連座し、1616年にに預けられ斬首。 元和4年 1618年 には飛騨国・高山の金森重頼に身柄を預けられますが、この時に使者である と中山照守に対して無罪を主張したため、幕府の重臣らが将軍への謝罪を勧め、結果として忠輝は飛騨に赴きました。 。

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松平忠輝

松平 広 忠

I:『麒麟がくる』で稲葉良通(一鉄)を演じている村田雄浩さんが広忠を暗殺していたわけですね。 清康の死により、松平信定の手にわたる岡崎城 守山崩れ 清康・広忠父子の運命に大きく関わっていたのは、清康の叔父にあたる松平信定でした。 墓はの妙心寺。 元和2年(1616年)7月6日、忠輝は兄・秀忠から改易を命じられてに流罪とされ、に入った。 兄弟 [ ]• そして 天文4(1535)年、清康は突如家臣である阿部正豊に斬られて亡くなってしまいます。

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松平広忠

松平 広 忠

14年()卒。 (まつだいら-ただてる)は、 と側室である茶阿局 さあのつぼね の間に産まれた六男です。 しかし同年9月の持広の死去後、養嗣子・の加担で庇護者を失うと、大蔵に伴われてへ再逃亡。 のちに再嫁(「同」2巻「酒井」47頁)。 「寛永諸家系図伝」:1巻「松平・庶流」149頁。

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